公開: 2020年4月16日
更新: 2020年4月16日
私たち人間が使っている言葉では、もともとは人間などの動きなどを意味していた「動詞」や、対象の様子を説明するために使われていた「形容詞」から作られた「名詞」があります。これは、人間のかなり高度な知的能力を使ったもので、人間が使っている言葉によって作ることができる「名詞」の種類に違いがあります。
この人間の「行為」を名詞として日本語で表そうとすると、「人間がやっていること」と言うように、文章で説明しなければなりません。明治時代にヨーロッパの文明に追いつこうとしていた日本人の科学者たちは、そのような表現を日本語に訳すために、もともと日本で使われていた中国の漢字を組合わせて、「行為」や「動作」と言う、新しい言葉を作り出しました。
「正しく生きる」ことについて考えることを、古代のキリシャ人たちは、「エチカ」と言いました。「名詞」です。この言葉を語源として、現代の英語の"ethics"が作られています。この"ethics"を訳さなければならなかった明治時代の哲学者は、漢字を組合わせて、「倫理」(りんり)と言う新しい語を作り出しました。今日、私たちが「倫理学」と言っているのは、このことが始まりだした。
倫理学では、「善」(ぜん)を問題にします。人間が「正しく生きている」様子を言います。古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「善とはどのようなことであるか」を教えました。この「善」も、明治時代に考え出された日本語の言葉です。つまり、明治時代より前の時代の日本人の祖先達は、「善」を考えて生きることはなかったのです。
似たようなことは、江戸時代より前にもありました。徳川幕府は、武士たちが生きる指針として中国からもたらされた「儒教」の教えに従うことを奨励しました。良い武士は、「徳」を身につけていなければなりません。「徳」は、「忠」と「孝」を正しく行うことで達することができます。この場合の「徳」、「忠」、「孝」などは、元々中国で作られた言葉でした。日本語ではありません。
日本語には、もともと「うやまう」と言う言葉ありましたが、「忠」や「孝」に当たる言葉はなく、古代の日本人にはそのような考えはなかったと言えます。そのため、中国語がそのまま取り入れられ、教えられました。明治以降になっても、その本質は変わっていません。漢字で新しい言葉を作ったり、英語をそのまま使って表現したりしています。これは、日本語の柔軟性を表しているとも言えます。